Later, so much confused by so much comfortable at least nowadays ,after.

こんばんは。

 

 

近くに精神病院があります。

 

 

精神科病棟が複数階層連なっており、

 

 

近辺はメンタル不全と思しき入院患者達が時々歩いているのを見ます。

 

 

 

実は、精神科病棟の病床数が伸び悩んでいるのも、伸び続けているのも、

 

”病床が増え続けているから。”だったりするのですが、

 

 

(行ったことないのでよく分からないのですが)

 

 

イタリアの精神医療の現場では、

 

 

 

流石にnormalizationの本場???とでも言えるのでしょうか。

 

 

 

病床数がゼロになって久しいと聴きました。

 

 

(地域福祉の拡充と、地域生活の支援と啓蒙啓発が盛んに行われ、定着が固定したとの事です。)

 

 

 

 

 

以前、スマナサーラ長老比丘尼と言う、日本で80年代ほどから有名になったタイ僧院の僧正がいて、

 

その著書を3冊ほど読みました。

 

 

 

いわゆる”瞑想本”でして、、、

 

 

前者2冊の連続本は、

 

 

凄----く・深い事を書いておられました。

 

 

 

その後10年ほどしてAmazonで購入した新書は、

 

 

イラスト入りで凄く分かりやすかったのですが、

 

 

スマナサーラ長老の日本での苦渋の皴の跡が見え隠れしていまして、

 

 

 

凄----く、狭量な人に感じ、嫌な読後感でした。

 

 

 

しかし、、、

 

 

 

その後、この精神医療のセンターの近くに越してからは、

 

 

その考えが、『ガラリ』と変わってしまったのです。

 

 

 

何故ならば、、、

 

 

 

 

精神医療にかかる人の傾向です。

 

 

調べると、「感情の平板化」。

 

 

と言う言葉を見つけて更に調べました。

 

 

 

最初は激昂し続けていた人も、

 

脳内のバランスの狂いか???

 

 

と、異常性を判断するや否や、

 

即時。入院。

 

 

そして、服薬。。。

 

 

そして、福祉施設へ。。。

 

 

と言う過程の中で、

 

 

「ぼんやりと、虚ろ(うつろ)な人。。。」

 

 

が多くなるそうでした。

 

 

 

 

実は、スマナサーラ長老。

 

 

後者の本の中の記述に、以下の様な事を書いていました。

 

 

 

「精神病とは、ヒステリックな、感情的興奮の強い人全てだ。

 

私はイチゴが好きだけれど、殊更。農薬使用/不使用。聴かない。

 

(実際、イチゴ栽培の現場で農薬不使用は流通商品成立としては、味も甘さにも欠けると言う理由も(知り合い農家からヒアリング済み)あるっちゃーあるのですが、、、)

 

何故ならば、農薬不健康信者は、「怒っているのだ!農薬に!」

 

怒りが阿頼耶識に詰まっている人は、総じて古くから「精神病」である。」

 

 

 

やや現代的解釈からすると、強引な感じもしますが、、、

 

 

 

 

 

しかし、深い所はついてる。そう確信し、唸りました。

 

 

 

 

 

実は、スマサーラ長老の文語体の全てが「怒りに満ちていて(怒り・憤懣たりやらむ。と言った雰囲気)」、

 

 

「自分も「健康オタク」と称している人以上に、怒ってるんじゃないの!!!???」

 

 

と、矛盾の中の独善性と毒を感じてしまった経緯があったのです。

 

 

 

しかし、、、

 

実は、

 

 

こう言った特殊性を帯びた使命感を以って、日本に遣わされている人の内、

 

 

 

相当なバランスを個人的に保つか、

 

相当な守護や保護を何かに頼らないかしない限り、

 

 

 

こんな風に、興奮冷めやらぬ人になってしまいます。

 

 

結果、精神医療と言う巨大な門を叩き、

 

頼りきり、、、となってしまう様だ。

 

と、様々ある現場でヒアリングしていて分かってしまったのです。

 

 

 

すると、「苦渋の皴」と書いた理由がお分かりになりますか???

 

 

 

 

 

人は、実は頼っていなさそうな人に頼り切りになった挙句、

 

 

共依存も成立しないまま、一方的に依存状態に陥り、

 

 

その人の動向次第で、意味もない不平不満と復讐を繰り返すものです。

 

(芸能人のゴシップで「がっかりしました」と申す人などは、その傾向が強いのかもしれませんね。)

 

 

 

例えば、こう言うのは、

 

 

「性的サディズム傾向のある、先天性のディスファンクショナブル・サイコパスさん」

 

 

の、ストーキング行為の、

 

ストーカー側心理とよく似通っているのかも知れません。

 

(ストークドの方は、間接的には依存しているので、少しだけ共依存成立だったりはします。)

 

 

 

 

結果、サイコパスさんなので、目的への手段は選びません。

 

 

これはもしかしたなら、ヒーロー視されていたスマナサーラ長老に対する敬意が何らかの形で裏切られたと思う人々からの復讐心と何か似ているものがあるのかも知れません。

 

 

 

 

精神科に通う人の中で、本当に純粋な人たちと言うのは、こんな風に、

 

阿頼耶識と呼ばれる、無意識の反応の形式の中に、様々な違和感を埋め尽くされた挙句、怒り心頭になってしまっているだけなのではないか。

 

そう思ったのです。

 

 

 

それがつまり、「精神の病」と言う事なのでしょう。(スマナサーラ長老の言葉を借りるならば)

 

 

 

 

怒りと言うものは、イチゴの農薬使用/不使用に対するこだわりの様なものなのでしょう。

 

 

 

 

自らの意見に賛同しなければ、爆発しますが、

 

 

 

誰もそれを相手に強要は出来ません。

 

 

 

 

それはどんな立場の人ですら、目の前の人の心の領域には実際には入り込めない。と言う事と似ています。

 

 

 

 

入り込んでしまった際に、もしもそこに主だった理由が無いならば目の前の人は違和感を感じる事でしょう。

 

 

 

 

 

でも、その違和感を貯め込めば、人の心は移ろいやすくなり、

 

 

結果、『異常な人』となってしまうかも知れません。

 

 

 

 

 

 

そこに本当に愛はあるのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

愛とは、何でしょうか?

 

 

S.kamiki

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

insect flying around and around

こんにちは。

 

 

 

夜中ですが、この時期にしては珍しく、窓に昆虫がぶつかって来ます。

 

1分おきに一回ぐらい、羽音と共にガラス面へのクラッシュ音が響き、一瞬、

 

『ポルター・ガイスト(騒々しい悪霊)か???』

 

 

と、思ってしまったぐらいです。

 

 

 

 

昆虫と言えば、昔は子供と言えば昆虫採集でしたね(^^)。

 

 

 

昆虫にもいろんな種類がいて、気になってソワソワしたものです(笑)。

 

 

スズメバチも怖いですがスズメガ(ピンク色の蛾)も、怖くて不気味でした。

 

 

 

スズメバチに追いかけられるよりも、巨大なピンクの蛾に追跡される方が何百万倍も恐怖ではないでしょうか(笑)ゾワッ。

 

 

 

と言うわけで、、、

 

 

色んな昆虫がいて、面白い世界です。

 

 

 

 

どうやら今回窓にぶつかってきていたのはカメムシの大群のようでした(窓の下確認済み)。

 

 

 

 

カメムシと言えば、以前。

 

 

 

友達だった不良のO君の家に遊びに行ったならば、

 

 

 

その人の家のストーブの中に、

 

 

秋がけのカメムシの大量発生の際の折、

 

 

一匹一匹、布テープを「ピリリ」と破いては

 

一枚で捕まえ掴み、くるんではギュッとつぶし、投げ込み跡形も亡くなるまで焼き尽くす、、、

 

と、元・水商売のおふくろさんが集中してルーチン行動化を繰り返しているのを見ました。

 

 

立ち込める香りを嗅いで、思わず。

 

『ゾワーーーっ』と、したのですが、

 

 

 

自身は特に興味もないようで、気にしていませんでした。

 

(O君は相変わらずで、ひゃっひゃと、シンナーで数本以外溶けてしまった口の中の歯をのぞかせながら笑い転げていました。)

 

 

 

 

 

さて、、、

 

そんな余談は良いとして、

 

 

 

カメムシと言えば、防衛反応でお尻から匂いを出します。

 

 

 

で、臭い臭いと言いますが、

 

アゲハチョウの幼虫の鼻の触覚?から出す匂いから比べるとややマイルドですし、

 

逆に言うと、魚の腐った匂いに比べれば相当なレベルで臭わない類です。

 

 

 

しかし、こうもカメムシ信仰が流布してしまうと、

 

 

やはり、こんな風に。

 

 

大量虐殺。と言う事態に陥り兼ねません。

 

 

 

クサガメなどという人もいますが、

 

沼に棲むクサガメはもっと臭いです(びっくりしますよ))

 

 

 

偏見はあまり良い心象を呼ばない様ですね。

 

 

 

 

 

こんな風に。

 

ジャッジと言うものもあらゆる角度から見てみると、

 

穴ぼこ。抜け穴だらけだったりするので、

 

 

 

 

「判官気質」の人は、自分の「I am low。」的な思考をたまには疑ってみると良いかも知れません。(薦めてはいますが、嫌味ではありませんよ。)

 

割と、後から後付けで仕入れたまたは入ってきてしまった情報に「踊らされている」だけで、

 

”自分(どこからどこまで?判断できていますか?)”とは無関係な内容であったりするものでしょう。

 

 

 

私は常にその警戒音だけには気をつけて暮らしています。

 

(下手すると、変な”雰囲気的なもの”と和合しちゃったりします。群衆心理的なものですよね。)

 

 

 

結果、実際はそれほど臭くもないものを臭いとのたまわったり、強烈なジャッジの記憶を後世にまで伝えられてしまい、カメムシも困ったものでしょう。(人間が思うほど効果ないとは思いますが-断言-)

 

 

 

嫌悪感の色合いはどのように自分の中で影響力を濃くしたり、強めたりするのか?

 

 

あまり頭に血が上る人は、気をつけたほうが良いかも”知れません”し、

 

 

かと言って、あまりメタ認知が過ぎると、cooool!になり過ぎた挙句、

 

"cruelty(冷酷性)”に陥ったりするので、ご注意を。ですね。

 

 

ちなみに、カメムシを嫌いすぎても両者極まりますし、

 

 

カメムシを庇いすぎて里心がつきすぎても、逆方向に両者。となってしまいます。

 

 

Princeと言う歌手は強度のマクロビオティック励行者だったようですが、

 

早死にしてしまいました。

 

 

自身の体質も鑑みながら、

 

 

本当は何が良いのか?

 

見つめ続け、試し続ける必要性がある。と言えるでしょう。

 

 

 

あまり世話焼きし過ぎても、自分のことがお座なりになる上に、

 

 

無視し過ぎると、バランスがメタ狂いとなり、寸座/ もしくは遠隔で自分に返って来るかも知れませんし、

 

 

 

無茶な「判官贔屓(はんがんびいき)」は避けた方が賢明かも知れません(君子危うきに近寄らず。と言う言葉もあながち馬鹿にできないものでしょう。)

 

 

 

 

 

と、まあ。昆虫一つでつらつらと書き連ねて参りました。

 

 

 

 

一言で言うならば、

 

 

世界って、面白いよね♪

 

 

 

 

それだけなのかも知れない。

 

 

そんな深夜の出来事でした。

 

 

ED 「人間っていいな」まんが日本昔ばなし

 

 

 

 

P.S.

 

因みに、こう言った出来事って、よくあるのかも知れません。

 

 

カメムシではないし、魚ではないのですが、

 

 

誰か、心で共鳴した相手をむざむざ看過してしまうと、

 

 

後で、逆恨み的・復讐を受けかねませんが、

 

 

逆に言うと、それで世話焼きし過ぎると、

 

 

熱狂的な逆・信者信仰。みたいな事にもなります。

 

 

ほどほどに生きた方が良いのかも知れませんね。

 

 

カメムシはあまり影響受けませんが、人は大量虐殺なんて起きてはならないでしょう。

 

しかし、実は、、、、

 

統計上。日本では戦後・現在において、戦死者や大量虐殺被害者にも及ぶほどの自殺者が計上されているのです。

 

 

大量虐殺と言いますが、人間ならば、

 

 

そもそも、「死」と「殺」を、どう分けるのでしょうか???

 

 

と、提言を残して終わりたいと思います。

 

 

 

S.kamiki

High-pressure/low-pressure

こんばんは。

 

 

 

隣の家から巨大ないびきが聞こえて飛び起きました(ガバッ(笑))。

 

 

 

不思議な事に、いびきをかく人は男性の方が多い印象があります。

 

 

(引きずる鼻の音から察するに、どうやら隣の高齢者(90代くらい(?)の見かけ)の方のようです。予後が心配になりますが‥明日、奥さんの娘さんと仲が良いので起き抜けにほんのりと伝えておこうかと思います。症例上/危険なので・・・)

 

 

 

 

受信機能と言うものは、いろんな弊害を招くものです。

 

 

例えば、このいびきも、何かを受信して自動発生しているもの。と言う考え方もあるそうです。(エビデンスは調べられませんでしたが、知り合いのベスト・ドクターズ受賞の耳鼻科医が申しておりましたので確かだと思います。)

 

 

 

従って、眠って無防備な時ほど、

 

鼻の粘膜を刺激するものとか、

喉の気道を狭めるタイプの電磁波とか、

もしくは、、、

 

 

と、いろいろな可能性があるのですが、

 

ご高齢の方で、免疫(防御/受信ブロック機能と考えて)機能が落ちていれば、

 

当然。

 

経皮でも、開いた口からの口経でも、緩んだ頭皮からも、、、

 

 

無防備な受信が自動運転を始めてしまう。と推察出来るのだそうです。

 

 

 

従って、起きていれば意識が混濁していない以上、

 

受信しづらいため、ブロック機能は働きますよね。

 

 

 

起きている。と言えば、、、

 

 

 

「リラクゼーション」が眠っているならば、

 

「テンション(緊張)」は、”起きている”サインでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

いびきもいろいろな治療法がありますが、

 

酸素吸入機の様なものを抱えて眠るのが得策のようですので、

 

 

お困りの方でお近くの方は、是非、最寄りの耳鼻科を訪ねられて見て下さいね(^^)。

 

 

 

 

音を感じた時、色な想念が浮かぶ。

 

と言う話を以前の記事でお伝えしました。

 

 

 

例えば、

 

 

 

私はこのいびきには何の違和感も嫌悪感も感じません。

 

”いびきと言うもの(自動発生する機能)”

 

には、正義感の対象化が難しい(悪意によって生まれていない)ため、

 

 

 

罰するとか、いわゆる、最近心理系で流行りの言葉”ジャッジ(裁判)”

 

 

 

これが、該当しないため、非常に戸惑い、意識のエネルギーを無駄に遣ってしまうからだと知っているからです。

 

 

 

従って、心配だけします。

(いのちの危険に対応できないことにのみ、困惑はしますが、時間が時間。なので、これも対応不能。と言うわけで、私の範囲にはないことになります。従って、放っておくしかない。と知っているため、心配ですが、不安にも当惑もしません-経験上。まあ、大概朝になったらケロっとしているでしょうから-と言うのもありますが‥)

 

 

 

この時、いびきに何を感じるか-受信機能の質-によっては、、、

 

『よし、折角だから、新規作成したブログサービスに記事を上げるぞ!』

 

とか、、、

 

まあ、秋の夜長、昨日もよく寝たことだし(私の場合で恐縮ですが、結構免疫も健康力も高い自負があるので、眠らなくても大丈夫だったりすると言うのも加味しつつ‥)、中秋の名月でも楽しむかなあ、、、あっ、ウイスキーの水割り作って、窓の近くに座って、、、

 

など、寸座に切り替えてスピードアップさせる事が出来ます。

 

 

 

 

しかし、聴覚とは自動的に受け取ってしまうものなので、

 

騒音は気になる人は気になるでしょう。

 

 

 

便宜上、注意はしますが、私も実際には、、、

 

あまり気になった事がありません。

 

 

(これもまた”大概”ですが、、、

 

大抵の場合、騒音を作り発生させる人/物/物事は、

 

 

上記と同じように「受信」し、「刺激(S)/反応(R)」を繰り返す本能タイプの人である。

 

 

と、知っているからでもあります。)

 

 

 

 

従って、”コレ”もまた、便宜上はハマりそうな影響のあるような対応はします(激昂したフリも出来ます。演技する人を憧れて部屋でひとり劇場をしていたのが功を奏しました。。。(^^)

 

 

が、

 

 

 

相手が自らの意識においてのコントロールを失っている状態だと寸座に判断したとするならば、、、

 

私は、相手に対応は心底求めていないので、

 

 

ただ、その受信機能を狂わせるフックだけ響かせて、”悪影響を受けないように”猿芝居的に寸座にその場を離れます。

 

 

 

従って、概して申せば、

 

「out-of-controll(whose for/with?)な人に、”人(主我)”のcontroll権(客我に移譲)は、全くありません。」

 

 

 

と言う事になります。

 

 

 

極めてラテラルシンキングであり、シンプル思考で非情的で悲しいのですが、

 

 

そう判定しました。

 

 

 

 

 

 

 

音と言っても、分かる人なら分かると思いますが、

 

 

色んな”質”があるものです。

 

 

 

 

 

音も意図(糸)ですので、

 

 

 

糸電話方式に、

 

 

 

 

伝え/伝わったことを受け取ると言う作業(あくまで自立的です。)を順次入れ替えましょう。

 

 

 

 

 

最初感じたことを大切にしながら。。。。

 

 

 

 

 

S.kamiki

 

 

 

 

 

stars of lovingness

こんばんは。

 

 

 

〜人は愛情の求め方を間違うと、確実に”統御不能(環境、自分自身の抑制と意識の操縦と言う

意味での)”になります〜

 

 

 

 

 

 

私は、自らに不当な(自らの立場に合わない)接遇を求めませんし、

 

そういう”物”に、正当な待遇も求めません。

 

 

 

「求めていません/必要ない」と言う事です。

 

 

 

何故ならば、”それ”が「求めている”側”」であり、

 

私は「求める”側”」に無い〜つまり与える側にあります〜からです。

 

 

 

「希求(want/crave)」すると言う立場にありません。

 

と言う事になります。

 

 

 

 

物乞いのような真似は永遠にしません。

 

不可能。この次元(space)においては。

 

 

 

 

従って、そう言った目算を誤る物には、

 

 

 

”与える事を希求しません”し、

 

”与えません”

 

(何度も試しましたが、打ち切る事に効果があると意識上でも計算がつきました。)

 

 

 

 

 

今日は、星が全く見えません。

 

霧が立ち込めているのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

私の母が以前こんなプリントを見せてくれました。

 

最後の行にこう。

 

 

 

 

 

「お芝居ごっこはやめましょうね。ごっこは」

 

 

 

 

 

非常に示唆に富んでいると思いました。

 

 

 

 

 

こう言う表現を"synical-fuck"

 

と呼ぶと知りました。

 

 

 

 

 

fuckしてはいけない相手にfuckしようとして失敗し続けるのはやめましょう。

 

それはとても危険な事態を招きます。

 

 

 

つまり、

 

性的象徴を借りないで端的に言うならば、

 

 

 

 

「自らの性と立場を理解し、自らの求めるところを理解し、

 

”それに矛盾しないことを旨としなさい”」

 

 

 

 

と言う事です。

 

 

 

 

 

悪ふざけの中学生が情状酌量されるのは、

 

少年院に入る歳ぐらいまでだと理解しましょう。

 

 

 

 

 

(つまり、私的表現の”お芝居ごっこ”とは、

 

永遠に実現不能な達成芝居の事です。

 

 

 

 

”それ”に不満足だからこそ、

 

”あなた”は、

 

 

 

”永遠に満たされず、求め続けてしまうのです。”

 

何故ならば、次から次へと繰り出し続けても、

 

止まらないからです。

 

満たされていない。

 

と言う事実と直結しています。

 

 

与える側には、埋める技術もポテンシャルもありません。

 

何故ならば、与える側が消えても、

 

受け取り側が止まる例が歴史上見当たらないからです。)

 

 

 

 

 

例えば、こう言った表現をブログに書くとします。

 

目算を誤ると、全く違う解釈を招き、

 

受け取り側が最も後で苦労を強いられる結果となります。

 

 

 

 

私は被害者意識を当方と”何か”両方に。

 

助長しようとしているのではないのです。

 

 

 

 

警告を出しているのでもありません。

 

 

 

 

”警戒信号”を出しているのだ。と理解しましょう。

 

 

 

 

 

何度も言いますが、私は”受け取る側にありません”。

 

 

 

 

従って、受け取ることを”与える”ことはない。

 

 

 

 

 

 

 

目算を見誤らないようにしましょう。

 

 

 

 

 

 

許しているのは”あなた”の意識の一部分だけです。

 

 

 

 

 

自らを傷つけていることに気づかないのであれば、

 

 

膨大な量の傷が一挙に来る瞬間は今この時です。

 

 

 

 

もう、待ってくれる相手はいません。

 

 

 

 

 

 

S.kamiki

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

swing birds crying into branches

こんにちは。

 

美味しいものが好きで、近くのスーパーでよく買います。

 

柿とか、トマトとか、、、

 

今は、年中トマトも食べれて嬉しいものです。

 

 

 

楽しい時間はすぐに過ぎるもので、

 

今日も志事をしながら夜が更けていきました。

 

 

 

ふける。と聞くと、サツマイモがふけたよ〜、

 

などの古き良き時代の威勢の良い掛け声を思い出します。

 

 

 

 

外を歩きながら外回りをしている時に、

 

小鳥の声がそこかしこに響いているのが聞こえました。

 

 

「啼き声」と言うのが正しいでしょうか。

 

 

けたたましいとも取れますし、

 

一生懸命鳴いている。とも。

 

 

 

昔は、ゆっくりと公園を歩きながらそれを楽しんだものだな〜とふと思い出すんです。

 

 

 

 

皆さんは、大好きな人はいますか?

 

 

愛している人が楽しんでいるのを見ると、嬉しく思うものですよね(^^)。

 

笑っている笑顔も、泣いている顔も、

 

人生の侘び寂び(わびさび)の様で、嬉しく見つめてしまいます。

 

(一生懸命生きているな〜)と。

 

 

小鳥と人とは全く違う存在ですし、

 

共有するものが同時に起こるとは思えません。

 

 

でも、なんとなく、その心の機微を、

 

大切に。大切に。

 

 

母親が子供を抱きしめるように。

 

父親がそれを静観するように・・・。

 

育んで、教え諭して、

 

成長させていきたいものですよね。

 

 

 

 

子供を持つものとしては、

 

子供を見ながらそんな気持ちになります。

 

 

 

 

実家に柿の木がありました。

 

今はどうしているか見ていないのでわかりませんが、

 

大切な家族が大昔こさえた大きな木でした。

 

 

 

 

あの柿の木にも、ヒヨドリたちが沢山遊びに来ていたのを思い出します。

 

 

 

 

元気に自然の中で遊んでいるのを思い浮かべながら、、、

 

 

今夜は、家族と共に、この部屋で。

 

ゆっくり眠りたいと思います。

 

 

Give "you" total praise.

 

Thanks.

 

S.kamiki

 

 

 

 

 

mikadsuki-akatsuki

こんばんは。

 

色の濃い闇が窓の外を包んでいます。

 

S.kamikiです。

 

 

優しさを含んで孕んでいた風の音と匂いは、

 

夜になると色を換えていくようでした。。。

 

 

 

電灯の灯りも静かに灯っています。

 

裸眼の目には少し、滲んで見えるようで、

 

ぼんやりと目の中に輝きを形作ります。

 

 

 

「空に夢を浮かべたら

 

そのhikariがbokuをテラスだろう」

 

 

という歌の歌詞があります。

 

 

 

 

ゆっくり見つめていると、雲も少しずつ流れているようですね。

 

 

 

風の強い日は、雲の流れもスムーズです。

 

 

 

遠い昔の落日の景色が目の前に浮かんで消えるようです。

 

 

 

今、まな板を叩く音が聞こえます(^^)。

 

 

 

 

 

もう少しで、夕餉の様です。

 

 

 

 

 

God bless 

 

S.kamiki

walter sound is clearly streaming

こんにちは。

 

今日は薄曇りの天気の下、暖かい空気が広がっています。

 

皆さんはいかがお過ごしですか???

 

 

山の中に入って行った時に、水神様の湧き水が流れ出す川がありました。

 

 

とても静かな気持ちになって行きます。

 

 

暖かな流れと言うものは、人の心の狂いを正します。

 

 

無理やり感があるような形ではなく、

 

また、放任的でもないですよね?

 

 

私は、その日は、

 

その場所で小一時間ほど座り、静かに心を整えて帰ることにしました。

 

 

家族は、その場所は無音になる不思議な場所だと言っていました。

 

 

水の音は静かに流れますが、

 

とても綺麗な音を奏でます。

 

音の質感は、人の心にとても大きなeffectを残すものです。

 

水の音は、ダイレクトに、心に静かな陰影と光のコントラストを写し返してくれます。

 

 

 

今、少し、、、

 

雑音から心の距離を置いて、

 

目を閉じて見てください。

 

自然の音は聞こえますか?

 

 

 

 

 

 

もしかしたならば、皆さんそれぞれで、

 

一人ひとりらしい自然の形が耳の奥に生まれてきたと思います。

 

 

”そこ”は、私たちのprivate-spaceです。

 

 

 

 

そこには、様々な美しい響きが今も残っています。

 

 

 

時間も意識もstreamingしています。

 

 

 

何も、無駄に根付くものはありません。

 

 

少し、ゆっくりと。

 

 

流れを見守ってみましょう。

 

 

 

耳の奥だけでなく、様々なものが流れ去り消え入って、流れを促進していきます。

 

 

 

 

水の音は静かに・速やかに・そして澄んだ音と共に余計なものを流し去ってくれます。

 

 

 

私は、今日も、自然の音に耳を澄ませています。

 

 

 

 

 

S.kamiki