stars of lovingness

こんばんは。

 

 

 

〜人は愛情の求め方を間違うと、確実に”統御不能(環境、自分自身の抑制と意識の操縦と言う

意味での)”になります〜

 

 

 

 

 

 

私は、自らに不当な(自らの立場に合わない)接遇を求めませんし、

 

そういう”物”に、正当な待遇も求めません。

 

 

 

「求めていません/必要ない」と言う事です。

 

 

 

何故ならば、”それ”が「求めている”側”」であり、

 

私は「求める”側”」に無い〜つまり与える側にあります〜からです。

 

 

 

「希求(want/crave)」すると言う立場にありません。

 

と言う事になります。

 

 

 

 

物乞いのような真似は永遠にしません。

 

不可能。この次元(space)においては。

 

 

 

 

従って、そう言った目算を誤る物には、

 

 

 

”与える事を希求しません”し、

 

”与えません”

 

(何度も試しましたが、打ち切る事に効果があると意識上でも計算がつきました。)

 

 

 

 

 

今日は、星が全く見えません。

 

霧が立ち込めているのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

私の母が以前こんなプリントを見せてくれました。

 

最後の行にこう。

 

 

 

 

 

「お芝居ごっこはやめましょうね。ごっこは」

 

 

 

 

 

非常に示唆に富んでいると思いました。

 

 

 

 

 

こう言う表現を"synical-fuck"

 

と呼ぶと知りました。

 

 

 

 

 

fuckしてはいけない相手にfuckしようとして失敗し続けるのはやめましょう。

 

それはとても危険な事態を招きます。

 

 

 

つまり、

 

性的象徴を借りないで端的に言うならば、

 

 

 

 

「自らの性と立場を理解し、自らの求めるところを理解し、

 

”それに矛盾しないことを旨としなさい”」

 

 

 

 

と言う事です。

 

 

 

 

 

悪ふざけの中学生が情状酌量されるのは、

 

少年院に入る歳ぐらいまでだと理解しましょう。

 

 

 

 

 

(つまり、私的表現の”お芝居ごっこ”とは、

 

永遠に実現不能な達成芝居の事です。

 

 

 

 

”それ”に不満足だからこそ、

 

”あなた”は、

 

 

 

”永遠に満たされず、求め続けてしまうのです。”

 

何故ならば、次から次へと繰り出し続けても、

 

止まらないからです。

 

満たされていない。

 

と言う事実と直結しています。

 

 

与える側には、埋める技術もポテンシャルもありません。

 

何故ならば、与える側が消えても、

 

受け取り側が止まる例が歴史上見当たらないからです。)

 

 

 

 

 

例えば、こう言った表現をブログに書くとします。

 

目算を誤ると、全く違う解釈を招き、

 

受け取り側が最も後で苦労を強いられる結果となります。

 

 

 

 

私は被害者意識を当方と”何か”両方に。

 

助長しようとしているのではないのです。

 

 

 

 

警告を出しているのでもありません。

 

 

 

 

”警戒信号”を出しているのだ。と理解しましょう。

 

 

 

 

 

何度も言いますが、私は”受け取る側にありません”。

 

 

 

 

従って、受け取ることを”与える”ことはない。

 

 

 

 

 

 

 

目算を見誤らないようにしましょう。

 

 

 

 

 

 

許しているのは”あなた”の意識の一部分だけです。

 

 

 

 

 

自らを傷つけていることに気づかないのであれば、

 

 

膨大な量の傷が一挙に来る瞬間は今この時です。

 

 

 

 

もう、待ってくれる相手はいません。

 

 

 

 

 

 

S.kamiki