Later, so much confused by so much comfortable at least nowadays ,after.

こんばんは。

 

 

近くに精神病院があります。

 

 

精神科病棟が複数階層連なっており、

 

 

近辺はメンタル不全と思しき入院患者達が時々歩いているのを見ます。

 

 

 

実は、精神科病棟の病床数が伸び悩んでいるのも、伸び続けているのも、

 

”病床が増え続けているから。”だったりするのですが、

 

 

(行ったことないのでよく分からないのですが)

 

 

イタリアの精神医療の現場では、

 

 

 

流石にnormalizationの本場???とでも言えるのでしょうか。

 

 

 

病床数がゼロになって久しいと聴きました。

 

 

(地域福祉の拡充と、地域生活の支援と啓蒙啓発が盛んに行われ、定着が固定したとの事です。)

 

 

 

 

 

以前、スマナサーラ長老比丘尼と言う、日本で80年代ほどから有名になったタイ僧院の僧正がいて、

 

その著書を3冊ほど読みました。

 

 

 

いわゆる”瞑想本”でして、、、

 

 

前者2冊の連続本は、

 

 

凄----く・深い事を書いておられました。

 

 

 

その後10年ほどしてAmazonで購入した新書は、

 

 

イラスト入りで凄く分かりやすかったのですが、

 

 

スマナサーラ長老の日本での苦渋の皴の跡が見え隠れしていまして、

 

 

 

凄----く、狭量な人に感じ、嫌な読後感でした。

 

 

 

しかし、、、

 

 

 

その後、この精神医療のセンターの近くに越してからは、

 

 

その考えが、『ガラリ』と変わってしまったのです。

 

 

 

何故ならば、、、

 

 

 

 

精神医療にかかる人の傾向です。

 

 

調べると、「感情の平板化」。

 

 

と言う言葉を見つけて更に調べました。

 

 

 

最初は激昂し続けていた人も、

 

脳内のバランスの狂いか???

 

 

と、異常性を判断するや否や、

 

即時。入院。

 

 

そして、服薬。。。

 

 

そして、福祉施設へ。。。

 

 

と言う過程の中で、

 

 

「ぼんやりと、虚ろ(うつろ)な人。。。」

 

 

が多くなるそうでした。

 

 

 

 

実は、スマナサーラ長老。

 

 

後者の本の中の記述に、以下の様な事を書いていました。

 

 

 

「精神病とは、ヒステリックな、感情的興奮の強い人全てだ。

 

私はイチゴが好きだけれど、殊更。農薬使用/不使用。聴かない。

 

(実際、イチゴ栽培の現場で農薬不使用は流通商品成立としては、味も甘さにも欠けると言う理由も(知り合い農家からヒアリング済み)あるっちゃーあるのですが、、、)

 

何故ならば、農薬不健康信者は、「怒っているのだ!農薬に!」

 

怒りが阿頼耶識に詰まっている人は、総じて古くから「精神病」である。」

 

 

 

やや現代的解釈からすると、強引な感じもしますが、、、

 

 

 

 

 

しかし、深い所はついてる。そう確信し、唸りました。

 

 

 

 

 

実は、スマサーラ長老の文語体の全てが「怒りに満ちていて(怒り・憤懣たりやらむ。と言った雰囲気)」、

 

 

「自分も「健康オタク」と称している人以上に、怒ってるんじゃないの!!!???」

 

 

と、矛盾の中の独善性と毒を感じてしまった経緯があったのです。

 

 

 

しかし、、、

 

実は、

 

 

こう言った特殊性を帯びた使命感を以って、日本に遣わされている人の内、

 

 

 

相当なバランスを個人的に保つか、

 

相当な守護や保護を何かに頼らないかしない限り、

 

 

 

こんな風に、興奮冷めやらぬ人になってしまいます。

 

 

結果、精神医療と言う巨大な門を叩き、

 

頼りきり、、、となってしまう様だ。

 

と、様々ある現場でヒアリングしていて分かってしまったのです。

 

 

 

すると、「苦渋の皴」と書いた理由がお分かりになりますか???

 

 

 

 

 

人は、実は頼っていなさそうな人に頼り切りになった挙句、

 

 

共依存も成立しないまま、一方的に依存状態に陥り、

 

 

その人の動向次第で、意味もない不平不満と復讐を繰り返すものです。

 

(芸能人のゴシップで「がっかりしました」と申す人などは、その傾向が強いのかもしれませんね。)

 

 

 

例えば、こう言うのは、

 

 

「性的サディズム傾向のある、先天性のディスファンクショナブル・サイコパスさん」

 

 

の、ストーキング行為の、

 

ストーカー側心理とよく似通っているのかも知れません。

 

(ストークドの方は、間接的には依存しているので、少しだけ共依存成立だったりはします。)

 

 

 

 

結果、サイコパスさんなので、目的への手段は選びません。

 

 

これはもしかしたなら、ヒーロー視されていたスマナサーラ長老に対する敬意が何らかの形で裏切られたと思う人々からの復讐心と何か似ているものがあるのかも知れません。

 

 

 

 

精神科に通う人の中で、本当に純粋な人たちと言うのは、こんな風に、

 

阿頼耶識と呼ばれる、無意識の反応の形式の中に、様々な違和感を埋め尽くされた挙句、怒り心頭になってしまっているだけなのではないか。

 

そう思ったのです。

 

 

 

それがつまり、「精神の病」と言う事なのでしょう。(スマナサーラ長老の言葉を借りるならば)

 

 

 

 

怒りと言うものは、イチゴの農薬使用/不使用に対するこだわりの様なものなのでしょう。

 

 

 

 

自らの意見に賛同しなければ、爆発しますが、

 

 

 

誰もそれを相手に強要は出来ません。

 

 

 

 

それはどんな立場の人ですら、目の前の人の心の領域には実際には入り込めない。と言う事と似ています。

 

 

 

 

入り込んでしまった際に、もしもそこに主だった理由が無いならば目の前の人は違和感を感じる事でしょう。

 

 

 

 

 

でも、その違和感を貯め込めば、人の心は移ろいやすくなり、

 

 

結果、『異常な人』となってしまうかも知れません。

 

 

 

 

 

 

そこに本当に愛はあるのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

愛とは、何でしょうか?

 

 

S.kamiki